なぜ写真を撮るのか?聞かれたことはないけれど、いろいろ思うところがあるので書いてみる。
なんでいろいろ思ったかって、公募展なんかに出展すると、「準備期間中、作品撮った!」みたいな声が聞こえてきたり、実際に展示をしてみても、凄い世界観を持った写真に圧倒されたり、そういうの、俺にはできないなぁ…とヘコんだりしているからである。
なぜできないのか、やろうと思わないから。なぜやろうと思わないのか、やりたいと思わないから。なぜやりたいと思わないのか、結局そういう目的を持って写真を撮ってるわけじゃないから。これが私の行き着いた結論である。
写真という「かたち」は同じでも、そこに込められる思いはいろいろある。
例えば「絵画」に近い写真。作り込まれた構図、ライティング、モデル、などなど…自分の思い描いたものを表現し、自分を表現する手法としての写真。絵を描くように作られた写真も、ひとつの「かたち」である。(書いてて思ったけど、絵画も作り込むものだけじゃないな、と思ったり)
また、「ドキュメント」という写真もある。「写真」という言葉に最も近いのがこれかもしれないけれど、そこにあるもの、そこでおきたこと、その真実を写したもの、それを多くの人に伝えたいという想いのこもった写真。これもひとつの「かたち」である。
当然、写真に全ては写らないので、本当の真実が写ってるわけじゃないけれど、その人の感じた「真実」は写っている、はずである。(それを写そうとするのがこの部類の写真なのだろう)いや、真実っていうのはひとつではないかもしれないから、むずかしい。(なんだか、エヴァみたいな話になり始めたので真実の話はまた別途)
もう一つは「記録」「記憶」としての写真。ドキュメントに近い部分もあるが、決定的に違うのは、写したいもの、残したいものが「真実」ではなく自分の気持ち、感情などを残した写真である。日常のなかでのふとした感動を写したもの、そこには深い意味はなく、ただ「私が感動した」という事実があるだけである。私の写真はこれにあたるかなぁ、と思う。桑原甲子雄さんの「ごく私的な記念写真」という言葉が好きなので、きっとそういうことなんだろう。
つまり何が言いたいかっていうと「写真」と一口に言ってもいろんな種類があるので、あんまり周りに流されずに自分らしく楽しめばいいじゃないか、ということ。誰もが芸術的な写真を撮れるようにならなきゃいけないわけじゃないし、スナップを撮れなきゃだめ、なんてこともない。(撮りたいと思って、練習、訓練することはとっても大切!)だから、隣の人に流されないで、自分らしい写真を撮ればいいじゃないか、と。
ただ、写真展などで写真を人に見せることになると、その「想い」が伝わる写真はどうすれば撮れるのか、についてしっかり考えて、研究するべきだと思う(自戒の念…反省)
それから、自分の好きな種類の写真以外の種類のものを否定するとか、そういうのはやめようぜ、ということ。「好みじゃない」っていうのは全然いいと思う。「そんなの写真じゃない」というのは違うと思う。他人の写真を見て、なんじゃこりゃ、とか、好みじゃないな、と思っても、込められた想いはどんなことなのかな?という視点で見てみると案外楽しめるかもしれない。だって、せっかく写真を見るのなら、不愉快になるよりも楽しんだほうが得じゃないか
なんだかうまくまとめられなかったけれど、ようは、趣味なんだし、たのしもうぜ!ということ。諸先輩方から見れば「何を今更」と思われると思うけれど、せっかく気づいたことなので、ここに残しておこうと思う。もし、写真で悩んでいる誰かのヒントになれば…という想いとともに。